2011年4月12日 (火)

コロンボでの想い

4月2日~3日に神戸で全日本ろうあ連盟臨時理事会が行われた後、急いで帰京。
翌日の4月4日午前に、成田からシンガポール経由スリランカへ発った。

臨時理事会は、もともと、3月12日~13日に東京で行うものだが、3月11日に宮城県太平洋沖でM9の地震が起き、翌日12日に福島第一原発の事故が発表されたことにより、石野理事長の判断で「理事会中止・延期、急遽各々帰宅するように」と指示が出され、延期されたものである。
東日本大震災により、私自身の各組織の出席が余儀なく変更された。首長不在の開会が幾つかあり、たぶん、各々の組織史上初の首長不在の開会となったかもしれない。

各々の組織に出席された方々の協力のお陰様で無事に事が進み、閉会されたこと、誠に感謝申し上げたい。

神戸で臨時理事会が開かれた場所は、1995年の阪神大震災で被害が一番大きかった長田であった。
スリランカも、2004年のスマトラ島沖地震による津波で大きな被害を受けた。
阪神大震災、スマトラ島沖地震、東日本大震災、各々の繋がりがあるところへ行ったのは、運命だろうか。

今回のスリランカ行きは、ダスキンの2011年夏~2012年夏の研修生候補者との面接である。
一昨年、香港中文大学との共同作業でスリランカへ訪れた以来であるが、一昨年はテロ対策のため、検問と通行制限が多かった。
今回は、多くが解除されて、自由となっている。

20110406_006 20110406_010スリランカは、1988年頃、モルジブへ行く途中に乗り継ぎのため降りて、Taj Hotelに1泊した。当時は大晦日の夜であり、広い海浜公園で大勢の人々が集まっていたので、物珍しさで友達と一緒にブラブラしたと記憶している。
1988年から20年以上経った今、Taj Hotelの真正面の広い海浜公園で自由往来している人々を見て、変化が幾つかあると気付いた。

①女性のへそを見せているサリー姿が比較的に高齢化が進み、若い女性はワンピースやズボン姿が増えている。
②男性の腰巻が完全に消えている。自宅では腰巻の習慣が残っているかもしれないが、海浜公園でぶらつく男性は皆、ズボンか短パンの姿になっている。
③男性同士で手を繋いだり肩を回すことは親友の証しであったが、今は見かけなくなった。西洋化が進んだかもしれない。
④天然パーマなのか、グルグル毛が多かったが、女性の髪がストレートが多い。男性は短めの髪が多い。
 それも西洋化の一つかもしれない。

日本でも、昔、着物姿が結構みられたが、西洋化が進んで、今は、町の中では高齢者ぐらいとなった。
国内外の情報流出入が進み、貨幣を中心とする庶民生活へ変化した結果であると思う。

20110407_036 20110407_048それから、コロンボ滞在の最終日に、滞在先のCinnamon Grand Colomboというホテルから東へ徒歩30分ほどに、ガンガラーマ寺院へ行ってみた。
仏教の寺院であり、境内に象がいた。

20110407_032 20110407_034土足を脱いで預けて、境内を歩くと、右のものを見かけた。
東日本大震災のお悔やみ・お見舞いを記した横断幕が、境内の数か所に飾られていた。
シンハラ語と日本語が書かれている。
その綴りを見て、日本から遠い国から応援しているのだと、胸には感謝の気持ちで一杯になった。

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2010年1月 2日 (土)

台北・沙帽山温泉

新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

新年を迎えた夜に、台湾・沙帽山温泉へ行ってきた。
台湾は、温泉が多く、種類も豊富であることが知られていて、日本人間のイメージでは、美味しい料理に、良質の温泉が加えているようだ。
台北には、陽明山、北投、烏來が有名だが、陽明山の斜面に、小さな温泉が数多くあり、プライベート用のところもあるらしい。小さな温泉のうちの一つの、沙帽山温泉へ行ってきた。
陽明山斜面の小さな谷に、酸性硫黄泉が湧いていて、たぶん15軒位の温泉レストランが集まっている。(士林区行義路300巷)

20100101_009私が行ったのは、左画像の「川湯温泉」という温泉レストラン。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/emiemi/tw/kawayu.htm
なぜこの温泉を選んだかというと、川湯温泉は日式温泉であるから。
台湾の温泉は、要水着が一般的である。「日式(温泉)」と掲げた温泉は、日本と同様、裸にして入浴できることになっている。

士林のホテルからタクシーで行って、30分ほど(220元位)。
沙帽山温泉の入り口に駐車場があるが、タクシーが川湯温泉の入り口まで連れて下さった。
町から少し外れたところにあるが、東京の距離感覚だと、新宿から一般道で中野か阿佐ヶ谷辺りへという距離感覚だ。

大小の宿が並んでいて、一番奥に、川を渡って、川湯温泉がある。入り口の橋を渡って、和風の宿に迎えられる。
大衆風呂は、200元(約600円)。
食事と一緒にすれば、400元(約1200円)。
レストランの部屋毎に日本地名がつけられていて、建物も和風になっている。
レストランの料理は勿論台湾料理だが、寿司もある。

20100101_010 20100101_014フロントで入浴料200元を払って、チケットをもらって、奥へ50mほど進むと、大衆風呂の玄関に着く。
のれんをくくって入ると、すぐ着替え室。15人位ほどの広さで狭い。
40人ほど入れそうな大きな露天風呂、6人ほどのジャクジー、座れば8人位の蒸し風呂、洗い場というレイアウト。
42~43度と設定されている。

硫黄の匂いがするが、強くない。

<行き方>
タクシー:
・MRT(地下鉄)士林駅から25分位、200元位
・MRT石牌駅からタクシーで約15分

バス:
石牌駅前から536、508など、剣潭駅前から612に乗車
バス停の案内板で「行義路」を通るかどうか確認するとよい
行義路(三)で下車、帰りは行義路(四)から乗ると楽!

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2010年1月 1日 (金)

台湾へ移動

20091231_060デフダイアログ(第1回)終了後、同行の通訳者は日本へ帰国、私一人で台湾へ渡航。
香港空港で労った後、解散。
海外出張時、いつも通訳者と一緒に行動していたが、最近、別々に行動することが多くなった。出張途中で、私一人で対処できる場合、通訳者を帰国させた後、一人で行動することがある。
20091231_062香港発台北行きの便では、行き来に慣れている人達で一杯。
香港と台湾との間の、人物交流が盛んだそうだ。
20091231_094 20091231_095台湾は、5年位振りだ。
左は台湾総統府、右は国民党本部。お互いに向かい合って建っている。
総統府の建物は、日本占領時代に建てられたものである。台北の街中のあっちこっちに日本占領時代の建物が沢山残っている。
20091231_086 20091231_089総統府と国民党本部との間に、228和平公園というところがある、台北駅から歩いて南下、5分位のところにあり、台湾大学医学部の隣にある。
その228和平公園は、1947年2月28日に起きた2・28事件の犠牲者家族の名誉回復、そして、その記念に、左の塔があるところ。また、228記念館がある。
1945年の日本降伏後、荘介石が率いる中華民国政府が上陸(逃避)したが、日本占領時より不景気悪化、失業増加、政府の横領行為が相次ぎ、警察がヤミ煙草の人を殺したことにより、放送局が呼びかけて、デモを起こした事件。
警察と軍隊が鎮圧したが、日本留学経験がある政府官僚や知識人を全員、中国共産党のスパイとして殺略を行った。その歴史事実は、「白色テロ」と呼ばれている。
日本では、「非情都市」が上映され、知られている。

20091231_072 20091231_077 20091231_079宿泊先の台北官邸ホテルから徒歩5分位に、士林官邸公園がある。
昔、荘介石が住んでいた官邸であり、今は、政府施設として使われているらしい。
公園が整備されていて、バラ園、洋式公園、中国式公園など、いろいろある。

20091231_111 20091231_120台北で一番賑やかな町は、西門町。
日本なら、新宿、難波に相当すると思う。
この街のあっちこっちに、日本語看板や、日本語表記が見かけられる。
5年位前、最初に来た時、この看板を見かけて、カルチャショックを受けた。日本占領時代の恨みなどがあると思ってばかりであった。
ところが、台湾は違い、親日的な雰囲気を感じられた景色の一つであった。
いろいろな美味しい料理を売られている店が立ち並び、徒歩圏内にいろいろ食べられることもいい!
台北デフリンピックの開会式で、「台湾美食」というテーマで、中国とは別だと、台湾文化を主張するという意図で演じられた。
台北では、本当に、いろいろな料理を楽しめるのだ。

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2009年12月29日 (火)

香港の師走夜

20091228_050香港の師走は、クリスマスセールで賑やか。
私達が宿泊しているホテルは沙田(シャティン)にあり、高層住宅が沢山立ち並んでいる。
20091228_058沙田駅の周辺に、大きなショッピングセンターが幾つかあり、連絡橋で繋がっている。
左画像は、ホテルの南隣のショッピングセンターから、うちのホテルへ繋がっている連絡橋の窓から撮ったもの。


20091228_043
日本の、今年の師走はどんな感じかな?

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2009年7月15日 (水)

夏の角館

20090711_018秋田新幹線こまちで、盛岡以遠へ行くのは初めて!
勿論、在来線で走る新幹線に乗るのは初めて!

20090711_014 20090711_016盛岡から秋田まで新幹線レールの在来線を走る。
踏切で目下に車が停車しているのを眺めながら横切る。
単線のため、小さな駅とホームにも止まる。

新幹線は、新幹線レール(広軌道)の高架線を走り、踏切はない。どの駅とも、16両の長さ以上の長いホームが用意されている。駅舎は鉄筋で頑丈に作られている。
すれ違う時、速度を落とさず、200km/h以上走る。そういう新幹線に乗り慣れている私は、こまちに乗りながら、踏切を見て、小さなホームを見て、古い駅舎を見て、カルチャショック同様な驚きの連続であった(笑)。

20090711_002 20090711_004盛岡から小岩井、雫下を過ぎると、田植えが終わった、青空を映す水田が広がる景色が続いた。奥に、残雪の山々が連なり、夏の山だと実感させられる。
久し振りに、日本らしい景色を眺めて、精神的に肉体的にリフレッシュできた。
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2009年6月17日 (水)

飛鳥山公園の紫陽花

20090616_023東京都北区・飛鳥山公園の紫陽花は、数kmほど続き、電車窓から眺められ、癒されていて、電車通勤の人達の間では、評判がある。
北鎌倉の明月院は、手入れが届き、背より高く伸びて花を沢山つけているが、飛鳥山公園の紫陽花は高くもなく、花の数が長けない。
線路わきの歩道を歩きながら、数kmほどの紫陽花を眺めるのはなかなかいい。
『ゆずり葉』のロケ・谷中や千駄木から遠いが、滝野川、西ヶ原など、明治・大正の濃厚な雰囲気が残り、寺や神社も多い。
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2009年4月 5日 (日)

ヒマラヤ山脈の朝焼け

2008年12月28日の日記に書いたネパールに関して、ヒマラヤ山脈の朝焼けを収録したので、お見せしましょう。

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2008年7月18日 (金)

Kota TUA(コタ・チュア)

20080626_126 インドネシアは、欧州各国が貿易収益を睨んだ植民地拡大を争った時代に、オランダ領(植民地)だった。
アジア各地に、東インド会社が開いて造った街が残されていて、インドネシア首都のジャカルタも、港近くにKota TUA、旧街という意味の地区が残されている。

20080626_128 20080626_129この旧街地区は、日本人間では意外と知られていないようで、歩き回っているのは白人観光客ばかり。
左画像の建物は、復旧させた18世紀のもの、現在、人形博物館。右画像は、石畳の大通り。

20080626_138 20080626_139 この地区は、17~18世紀に建てられたものが多く、中心の博物館(右画像 元役所)は、1710年建立。博物館の向かい側に建つ、カフェは、元市長邸(左画像)。格式の高い建物で、休憩にもってこい。

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2008年1月14日 (月)

フィリピンの英雄

20071228_016 20080101_045首都のマニラ首都圏中心を歩くと、先進的な都会と変らない街であり、フィリピンらしさが未だに沸かない。
道路で走る多数のジプニーが、マニラ首都圏のど真ん中にいながら、フィリピンを実感できる唯一のもの。
マニラ首都圏の中心・マニラ市の北隣・キアポ市、そして北部の人口規模や面積が大きいケソン市は庶民の街であり、フィリピンの雰囲気を味わえると伺っている。
行って見ると、フィリピンらしさを実感するのに困難であった(笑)。
わかりやすく言わせれば、スペインの低所得層住宅地の路地に、大勢の華僑が住んでいるというイメージであった。

それから、地元のろう者に案内してもらって、フィリピンの英雄伝説に触れる機会があった。
現在のフィリピンが成立された歴史の一部を知るのに有意義なことであり、皆さんも、是非、知って欲しいと思い、書きます。

フィリピンの英雄は、たぶん沢山いるかもしれあいが、今回は二人を挙げよう。

20080101_046 20080101_051ラプラプlapulapu
左画像2枚が、リサール公園東の、ラプラプ立像。
1521年4月、セブ島近くのマクタン島で、マゼラン軍と戦って破り、マゼランを倒した(マクタン島の戦い)という。
フィリピン人アイデンティティが最初に形成されたと見方もできる。
<参考>
http://history.husigi.com/VHv2/koneta13.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%97

20080101_002 20080101_0322枚が、ホセ・リサールJose Rizar。
左がサンチャゴ要塞内、右がリサール公園西。
スペイン領時代の抑圧から解放されようと、フィリピン独立運動の英雄。
フィリピン先住民、中国、スペイン、日本の混血であるが、スペイン政府に対してフィリピン人として立ち上がり、最後に、銃殺死刑により人生にピリオドを打たれた。
毎年12月30日が、リサールの日として、崇められている。
<参考>
http://homepage1.nifty.com/pdo/joserizal.htm
http://www.geocities.jp/bane2161/risa-ru.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB

リサール公園東・リサールモニュメントの近くに、リサール記念館がある。
「記念館」とは名ばかりで、建物がなく、野外にいろいろな銅像が置かれてあるところだ。
銅像で銃殺刑シーンを再現しているので、初めて見た時、私は躊躇した。
20080101_034 20080101_036 20080101_037


リサール記念館の位置は、ホセ・リサールの銃殺刑が行われた場所。
リサール銅像(左画像の左に倒れかかる像)の背中に、撃たれた跡の3ヶ所を実現している。
銃殺刑の周りに、リサールの生い立ちを物語る銅像が並んである。その真ん中辺りに、母の失明を動機として、眼科医者になったという銅像もある。

20080101_006 そして、スペイン時代に造られたというイントラムロスの北部に、サンチャゴ要塞があり、スペイン、英国、米国、日本、そして、米国へと、軍事根拠地として使われた建物がある。
説明板を読むと、なぜか、日本占領時代の悪事について、スペインなどより、数行多く書かれている。
米国にとって都合の良い記述となっているように思えた。
20080101_008スペイン領時代のサンチャゴ要塞への門。その門を出ると、イントラムロスの中であり、スペイン領時代の街が広がる。周りには城壁が囲まれている。その街には、スペイン人と、その混血しか住めなかったそうだ。


20080101_023 20080101_026左は、カーサ・マニラ博物館前のルナ通りGen Luna St.。右は、イントラムロス西側城壁の上から見たサン・ルシア通りSanta Lucia St.。
その辺りの街は、スペイン領時代の建築が並んでいる。
そういえば、バルセロナの小ぢんまりとした下町景色を思い出されるような町並みである。
20080101_020 20080101_028左は、サン・オウガスチン教会、右は、ルナ通りを南下して城壁を出るところ。そのまま南下すると、リサール公園へ出る。
20080101_027サン・ルシア通りを南下して突き当たりのところに、城壁を登って展望できる広場がある。
西に、マニラホテルの高層ビルが建ち、南方に、マニラ首都圏の高層ビル群の景色を眺めることができる。
この景色を眺めながら、この城壁は、マニラの今昔を物語る存在ではなく、フィリピン人アイデンティティ形成の節目の存在であるように思えた。

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2007年5月10日 (木)

初夏の八ヶ岳

皆さんの5月連休はいかがでしょうか。
私は、連休の真ん中に、大学院講義があるため、海外行きは休みでした(笑)。
私自身の講義欠席予定がわかっているので、なるべく、休まないようにするために、5月連休は日本にいることにしました(笑)。

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連休後半は、八ヶ岳南麓へ行って来ました。
残雪の八ヶ岳連峰、南アルプス連峰に、みずみずしい若葉、そして、山桜の景色を眺めて、気持ちも身体もリフレッシュできました。

20070503_056そして、八ヶ岳へ行く度に必ず訪れるところは、清春芸術村。
時期を過ぎたけど、清春の桜がなかなか見事だそうです。
赤い丸い建物は、芸術家達の作業場らしい。

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