2006年8月10日 (木)

<読売新聞>「ドン」が聞こえなかった ヒロシマろう者の記憶

読売新聞オンラインに、広島原爆のろう者の語りを載せている。
本来なら、全文引用は、著作権に触れてしまうが、新聞紙オンラインの掲載記事はいつまで閲覧できるか、私には知らないので、一応、全文コピーした(笑)。

昨年の夏に、長崎平和祈念式典で、被爆者の代表として、山崎さんが堂々と手話で語った。
そのように、被爆、或いは、目撃したろう者の語りを風化してはならない。
戦時のろう者はどう暮らしたか、戦災に巻き込まれたろう者はどうしたか、その語りも無視してはならない。

 -----(引用)-----
読売新聞ズームアップ・ウィークリー
「ドン」が聞こえなかった ヒロシマろう者の記憶
http://www.yomiuri.co.jp/zoomup/zo_06080201.htm?from=os1


 また、あの日が近づいて来る。61年前の8月6日、史上初めてヒロシマに投下さ れた原子爆弾は、瞬時に新兵器の威力と悲惨さを世界に広めた。しかしその時、「ド ン」が聞こえず、終戦後も情報から遮断されて、長い間、原爆とは何かを理解できな かった人たちがいた。被爆ろう者たちだ。正確な実態は把握されていないが、県立広 島ろう学校の卒業生らの調べでは、総数は125人に上る。沈黙の光景ゆえに一層、 鮮明に刻まれた記憶。手話通訳者の仲川文江さんとともに、存命の9人を訪ね歩い た。「いま話さないと、もう機会はない」。そのうち6人が、当初は重かった手を雄 弁に動かしてくれた。
(カメラとペン 尾崎孝)

「放射能」手話になく 吉上巌さん(72)
 爆心から約45キロ離れた疎開先の吉田町(現安芸高田市)で農作業中、せん光と キノコ雲を目撃した。迎えに来た姉に連れられて8月12日に広島市に入り、被爆。 投下時、市内にいた父母や姉ら家族は戦後、次々と死んだ。全身に紫の斑点を浮かび 上がらせて……。そのうち自分もと思ったが、生き永らえた。

 大惨事の元凶が新型爆弾なのは早い時期に知ったが、当時、手話には「放射能」を 説明する言葉がなく、実態を漠然と理解できたのは、かなり後のことだった。

 何がそうさせたのかも知らず、無念のうちに被爆死したろう者を慰霊する「原爆死 没ろう者を偲(しの)ぶ碑」を県立広島ろう学校(広島市中区)の校庭に建立したの は、3年前の8月。毎年8月6日に卒業生らと碑の前に集まり、めい福を祈る。

 同じ場所で、子どもたちに記憶をひもとくことがある。そばには移植された被爆ア オギリ。青々とした葉が、こちらも静けさのうちに、命の尊さを語りかける=先月1 4日撮影(左手前から2人目が吉上さん)。


友人捜し回り被爆 山岡猛志さん(85)

 大竹市でキノコ雲を目撃。地響きも感じた。8月9日に広島市に入り、自転車で行 方不明の友人を捜し回るうちに被爆。長期間にわたり髪が束になって抜けたが、回復 した。かつてはマラソンが得意、今は愛犬と散歩の日々。妻や友人に先立たれ寂しい が、「今でも元気だよ。ほら」と腹筋運動をした=昨年9月18日撮影。

校庭に白骨の山 岡本祐輔さん(76)

 疎開先の吉田町で、教師から新型爆弾が落とされたと聞かされたが、理解できなか った。8月17日、教師に引率されて国民服の配給のため広島市に入り、被爆した。 遠足で絵の展覧会を見に行った産業奨励館(原爆ドーム)の屋根が骨組みだけにな り、学校の校庭にうずたかく犠牲者の白骨が積まれていたのが、まぶたに焼き付いて いる。理容店を営んでいたこともあり顔が広い。自宅には訪問者を知らせるためのラ イトがあった=一昨年2月7日撮影。

体内にまだガラス 村田ヨシエさん(78)

 広島市西区の自宅で、かまどに火を入れて食事の支度中に被爆した。母に助け出さ れた時、見渡す限りの火事が自分のかまどの火の不始末のせいだと思いこみ、驚い た。逃げまどううちに黒い雨が降ってきた。灰や雨が、一番のお気に入りだった白地 に赤いしま模様のブラウスにしみを作って、悲しかった。

 刺さったガラスは体内に残ったまま。髪は4分の1ほど抜け、下痢は冬まで続い た。今でも、夏には体全体に力が入らない事があり、これが原爆症なのかと思う。

 戦後、プロテスタントに入信。日曜礼拝に足を運ぶ。かつて自宅があった路上で、 よみがえった確かな記憶に手をたたいて喜んだ。「思い出せた、思い出せた」=一昨 年11月14日撮影。

勤めに出た兄が骨に 伊藤黎子さん(79)

 自宅の茶の間で、青白いせん光とキノコ雲を目撃した。全壊した家の下敷きになっ た母は重傷。額は裂け、姉の背中で血を吐き続けた。勤めに出ていた兄は、骨となっ て見つかった。近所の人が作ってくれたバラックに避難し、畑の野菜を煮て食べた が、全員激しい下痢に襲われた。10年後、健康を取り戻した母と姉で東京へ引っ越 し、女3人で仲良く暮らしてきた。

 ときどき、頼まれて被爆体験の語り部をする。そのたびに、絵でしか残っていない 兄の面影が胸をよぎる=今年4月12日撮影。


壁に押しつけられた 高夫勝己さん(75)

 広島市東区の宅付近で子犬と遊んでいたら、いきなり10メートルほど吹き飛ばさ れ、壁に押しつけられて気絶した。気付くと、防火水槽に何人もが頭を突っ込んで死 んでいた。つぶれた顔から目玉が飛び出している。

 戦後、被爆者手帳をもらったが、あの地獄絵が特殊な爆弾によるものだとは、19 55年に作られた広島平和記念資料館で悲惨な実態の説明を受けるまで知らなかった。

 そんなことを話しながら、かつての被爆地まで歩いて行った。建物の壁を見ると、 ぐっと顔を押しつけた。あの時と同じように=昨年2月18日撮影。

(2006年8月2日 読売新聞)

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2006年4月21日 (金)

WTC

2001年9月11日
季節はこれから初夏のハッピーな日々になろうとしているのに、なぜか場違いな感傷になってしまった。
それは、2001年9月11日の同時テロ事件。
米ペンシルバニア州に墜落したハイジャック機を題材とした『ユナイテッド93』が公開されることを知ったから。

2001年9月11日の秋晴れ、快適な朝、一日の始まりの活気を見せている最中に、NYCの街に聳え立つWTCが飛行機に突っ込まれた。
平和な日々を過ごす人々は、それは何事なのかと理解するのに、時間がかかってしまった。
地上へ降りることができない大勢の人々が飛び降りて死んだ。
数日後、崩壊。多くの消防士や警察官が犠牲になった。
今の私達にとって、戦争以上の大きな衝撃のワンシーンであった。
戦争の方が恐ろしいと思うが、なぜか、WTCの突撃崩壊の方が衝撃が計り知れなかった。

数日後の2001年9月14日に、私はオランダへ飛ぶことになっていた。
オランダ・エデ市で開かれる会議に出席する為だ。
開催するかどうか、数日間、インターネットにかかりっきりだった。
参加するか不参加とするか決める為だ。

開催決行か、中止か?
米国参加者はどうなるか?

私がオランダへ飛ぶと決定したのは、9月14日朝4時頃。
慌しく荷造りを済ませて、NEXに乗り込んで、成田空港へ。
成田空港では、幾回もかなり厳しい検査を通って、機内へ。

大西洋間、太平洋間は、飛行停止・飛行禁止となった。
アムステルダムでは、米国へ帰国できなくなった米国人が大勢いた。
「WTCで働く友人知人がいるのよ、行方が気掛かりなの」と涙を流す米国人
ホテルで冷静な態度を保つ米国人
会議会場では、帰国できず長期間滞在となると見込んで、滞在世話を買って下さる方々を探す米国人

会議会場で久し振りに欧州の方々を見つけると喜び合った。
米国人でもないのに、なぜが「生きてよかった」と涙もろくなった。
その1週間は、私にとって、一生忘れられない経験の日々であった。

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2006年4月18日 (火)

第30回東京都聴覚障害者軟式野球大会

東京都聴覚障害者連盟副理事長として、『第30回東京都聴覚障害者軟式野球大会』へ開会式挨拶、優勝旗返還・授賞、そして、協力していただいている審判団へのお礼挨拶などの仕事をして来た。

この間の、4月17日(日)は朝から雨ポツリポツリで寒い。
そんな中で、大井競馬場近くの球場で、『第30回東京都聴覚障害者軟式野球大会』が開かれた。
都内の8チームがトーナメントで勝敗を決めて駒を進めて、関東、そして、全国大会へ出場権を獲得するのだ。

この大会の準備を担って下さった(都連盟体育部傘下の)野球運営委員会の委員長は、第30回という素晴らしい実績、昔先輩が始めたからこそ今の私達が楽しめることの感謝を述べて下さった。私の開会式挨拶より、なかなかいいスピーチであり、感動的であった。

来週の4月24日(日)に、決勝戦を進んだチームが関東への出場権を得るのだ。

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2006年4月17日 (月)

東京都立中央ろう学校

20060411_00220060411_0013月13日に「都立ろう学校の閉校」を書いた。
石神井+大田+大塚・杉並・品川の中学部が統合され、中高一貫校の都立中央ろう学校の入学式が、4月7日(金)に、元石神井ろう学校で行われた。
校門では、「石神井ろう学校」から「中央ろう学校」と変わった。
この中高一貫のろう学校としては、全国初だそうだ。

私の、東京都聴覚障害者連盟副理事長としての初仕事は、都立中央ろう学校の入学式来賓であった。
入学式来賓席に座って、式典の進行を見守った。
単に入学式の来賓として出席して、「祝辞を述べて見るだけでは駄目だ」と考え、来賓者に挨拶、特に、教育関係者(教育委員会)と政治関係者(議員)に挨拶することも大切だと肝に銘じて、何人かと挨拶を交わすように心構えて、努めた。
この初仕事で思ったことは、来賓者との挨拶には、タイミングさが本当に大切だということ。
タイミングを掴んでおかないと、挨拶することもできず、すれ違いになってしまう。それは、勿体無いことだが、本当に難しいと思った。もっと経験を積んで、タイミングを掴んで、名刺を交わして挨拶をして、我々の課題を述べて、そして、今後の情報を入手できるように努めたいと思っている。

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2006年4月16日 (日)

手話付プラネタリウム

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上写真の仙台市天文台で、5月一杯まで、手話付プラネタリウムが公開されている。
詳細は、仙台市天文台公式ウェブを参考していただきたい。
手話付プラネタリウムは、「THE SUN ~母なる星~」
下写真の左は、手話・字幕付であることと、見やすい席の案内を表示している。
下写真の右は、プラネタリウムが投影されている間に、音声説明が出ると、必ず、手話・字幕が表示されるのを撮ったもの。
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プラネタリウムは一度見たことがあるが、音声説明だけで、内容が全くわからなかった。
又行きたいと思うようなリピーター意識を持つことさえ、簡単なことではなかった。
そのように説明されるのかと、初めて知り、内容も結構面白かった。

皆さんも是非行くことをお勧めしたい。

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2006年4月11日 (火)

実家で

20060411_018公休を取って、久し振りに実家へ。たぶん1年半振りかな。
用事先の帰りに、昔第二次大戦終戦後、引き揚げ者の為に設けられた2階建て木造長屋が立ち並ぶ住宅地を歩いて、幼い時、いつも近道を歩いて帰った道を歩いたら、何と、上写真の通り、通行禁止と立て札が立ってた。フェンスが敷かれてあって、渡れないのだ。
しぶしぶと遠回りで歩いて、帰宅したのだ。

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2006年4月 9日 (日)

大舘君がチュニジアで出品

3月21日に大舘君の活躍さを紹介した。今度、大舘君がでかしたことをやりましたよ。

おおだてのぶひろ監督作品の「小さな下町」が日チュニジア外交樹立50周年記念に上映参加!

それは、日本-チュニジア外交樹立50周年記念企画の一環として、文化交流に大舘君監督の映画『小さな下町』が上映されたのだ。記念すべき行事に招待されて上映されるとは、大変名誉なことだ。

DEAF-NEWSから失敬するが、次のURLで、Odareという綴りで紹介している。

チュニジアのプレス新聞
http://www.lapresse.tn/pdf/la_une_pdf/2006-03-15_une.pdf

チュニジアのプレス・ウェブサイト掲載
http://www.lapresse.tn/index.php?opt=15&categ=4&news=23959

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2006年3月31日 (金)

Greg Gunderson氏

Greg



Greg Gunderson氏
米国サウスダコタ州在住
サウスダコタろう学校→地域高校→ギャロデット大学
ろうドライバー(レース)
http://www.gundersonracing.com/
※このホームページは全て英語

日本語表現で何と書くかわからないが、「カーレースドライバー50傑」の一人として選ばれている。
祖父と父がカーレースに参加、現在、本人が参加しているそうだ。

全部英語だが、写真も多いので、何となくわかるかもしれない(笑)。

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2006年3月23日 (木)

聴覚障害者向け通信装置の博物館

Day54g米国ウィスコンシン州マディソン市に、TTYなどの聴覚障害者向け通信装置の博物館があるそうだ。(出典元:DeafNation

次の見出しをクリックして、ゆっくりとご覧下さい。
ASL動画ビデオと英文の両方を表記。ビデオは11分間余り。

Barr Productions' Deaf Devices & Museum (DeafNation Road Trip - Day 54)
 ※聴覚障害者向け通信装置の博物館
 ※昔の最初の通信装置も出ています。

この博物館の住所は、次の通り。この近くへ行くことがあったら、是非訪れてみたいものだ。

Address: Barr Productions and Museum
4514 Monona Drive
Madison, WI 53716

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2006年3月21日 (火)

大館君の映画がエントリー

Img_5446神奈川新聞ローカルニュースに、次の見出しが出た。

☆国際ろう映画祭に横浜在住の大舘監督最新作がエントリー☆

五月にカナダ・トロント市で開かれる世界ろう映画祭に、大館君が監督した『迂路(うろ)』がエントリーされた23出品のうちの一つに選ばれたのだ。
その映画祭とは、「第1回トロント国際ろうフェスティバルアート&映画祭」(TIDEAF)だ。<参考:一覧

友人が映画祭にエントリーされたことは大変嬉しく思う。日本、そして、世界中のろう者皆が見て心に残るような映画製作を続けて欲しいと思っている。

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