地震経過がわかる地図
3月11日0時から始まって、今日に至るまで、東北大震災を含む地震発生の経過を見ることができるものが出た。
ニュージーランドのカンタベリー大学のPaul Nicholls氏が作成したもの。
日本の地震の地図
http://www.japanquakemap.com/?lang=jp
地図の右上角のところの「Sticky Dots」にチェックを入れると、震源地の点が残る。
東北~千葉県の太平洋沖の、日本海溝で頻繁に起きているのがわかる。
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3月11日0時から始まって、今日に至るまで、東北大震災を含む地震発生の経過を見ることができるものが出た。
ニュージーランドのカンタベリー大学のPaul Nicholls氏が作成したもの。
日本の地震の地図
http://www.japanquakemap.com/?lang=jp
地図の右上角のところの「Sticky Dots」にチェックを入れると、震源地の点が残る。
東北~千葉県の太平洋沖の、日本海溝で頻繁に起きているのがわかる。
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全日本ろうあ連盟正式サイトに、「東日本大震災に関する聴覚障害者関連の情報」というページがある。
http://www.jfd.or.jp/tohoku-eq2011
このページには、救援をはじめ、地震津波情報や義援金などの情報を載せている。
海外向けの英語ページがあり、私が国際手話で地震状態や救援などを説明した動画を載せてある。
http://www.jfd.or.jp/en/quake2011
4/6に載せた動画の1つが、H3のサイトに載った。
http://www.h3.tv/
http://www.h3.tv/videos/ichiro-miyamoto/
今後も、英語版に、国際手話による正確な情報を載せて行くつもりです。
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4月2日~3日に神戸で全日本ろうあ連盟臨時理事会が行われた後、急いで帰京。
翌日の4月4日午前に、成田からシンガポール経由スリランカへ発った。
臨時理事会は、もともと、3月12日~13日に東京で行うものだが、3月11日に宮城県太平洋沖でM9の地震が起き、翌日12日に福島第一原発の事故が発表されたことにより、石野理事長の判断で「理事会中止・延期、急遽各々帰宅するように」と指示が出され、延期されたものである。
東日本大震災により、私自身の各組織の出席が余儀なく変更された。首長不在の開会が幾つかあり、たぶん、各々の組織史上初の首長不在の開会となったかもしれない。
各々の組織に出席された方々の協力のお陰様で無事に事が進み、閉会されたこと、誠に感謝申し上げたい。
神戸で臨時理事会が開かれた場所は、1995年の阪神大震災で被害が一番大きかった長田であった。
スリランカも、2004年のスマトラ島沖地震による津波で大きな被害を受けた。
阪神大震災、スマトラ島沖地震、東日本大震災、各々の繋がりがあるところへ行ったのは、運命だろうか。
今回のスリランカ行きは、ダスキンの2011年夏~2012年夏の研修生候補者との面接である。
一昨年、香港中文大学との共同作業でスリランカへ訪れた以来であるが、一昨年はテロ対策のため、検問と通行制限が多かった。
今回は、多くが解除されて、自由となっている。
スリランカは、1988年頃、モルジブへ行く途中に乗り継ぎのため降りて、Taj Hotelに1泊した。当時は大晦日の夜であり、広い海浜公園で大勢の人々が集まっていたので、物珍しさで友達と一緒にブラブラしたと記憶している。
1988年から20年以上経った今、Taj Hotelの真正面の広い海浜公園で自由往来している人々を見て、変化が幾つかあると気付いた。
①女性のへそを見せているサリー姿が比較的に高齢化が進み、若い女性はワンピースやズボン姿が増えている。
②男性の腰巻が完全に消えている。自宅では腰巻の習慣が残っているかもしれないが、海浜公園でぶらつく男性は皆、ズボンか短パンの姿になっている。
③男性同士で手を繋いだり肩を回すことは親友の証しであったが、今は見かけなくなった。西洋化が進んだかもしれない。
④天然パーマなのか、グルグル毛が多かったが、女性の髪がストレートが多い。男性は短めの髪が多い。
それも西洋化の一つかもしれない。
日本でも、昔、着物姿が結構みられたが、西洋化が進んで、今は、町の中では高齢者ぐらいとなった。
国内外の情報流出入が進み、貨幣を中心とする庶民生活へ変化した結果であると思う。
それから、コロンボ滞在の最終日に、滞在先のCinnamon Grand Colomboというホテルから東へ徒歩30分ほどに、ガンガラーマ寺院へ行ってみた。
仏教の寺院であり、境内に象がいた。
土足を脱いで預けて、境内を歩くと、右のものを見かけた。
東日本大震災のお悔やみ・お見舞いを記した横断幕が、境内の数か所に飾られていた。
シンハラ語と日本語が書かれている。
その綴りを見て、日本から遠い国から応援しているのだと、胸には感謝の気持ちで一杯になった。
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3月11日に、東日本太平洋岸の大部分が津波に襲われ、多くの命が奪われたという未曾有の震災が起きた。
私は、3月12日~13日に行われる予定だった全日本ろうあ連盟理事会に出席するため、直前の日に浅草のホテルに泊ることになっていた。
ホテルに着いてしばらく経ったら、突然、激しい地震が起きた。
激しい縦揺れの後に、大きな横揺れが長く続いた。私は、ホテルの階段で身構えた。壁が揺らぎ、手すりもガタガタと揺れていた。
関東大地震の再来かと思うほど、生きた心地がしなかった。
5分以上経って、弱まって、止まった。
その後に、震度5度以上の揺れが数回繰り返した。
その後の浅草はどうなったか?
地下鉄やJR、東武が運休となったのだ。
私は、当日夜の(青砥駅近くの)葛飾シンフォニーでの会議へ出かけようと思った時、運休だと初めて気付いた。
浅草の見物に来ていた大勢の人達の足に大きな打撃となった。バス停やタクシー乗り場に長い行列ができた。
道路には渋滞が起きた。
その行列が夜中11時頃を回ってもまだ続いていた。
夜中のテレビでは、東北地方の太平洋岸に大きな津波が襲ったのだと流れていたが、翌朝になるまで、大規模な被害となると思ってもしなかった。
翌朝になって、太平洋岸の多くの市町村が壊滅されたこと、未曽有の震災だとのこと、紙面を見て驚かされるばかりであった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
3月12日午前に、全日ろう連において、「東日本大震災聴覚障害者救援中央本部」が立ち上げられた。
24日に、宮城県へワゴンで救援物資を送るという話が出た。
26日~28日、ワゴンを運転して、救援物資を届けて、そのワゴンも引き渡して、自分たちは動ける交通機関で帰京するという行程であった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
3月26日朝、立川の日産レンタカーからワゴンを借りる。
全日ろう連本部事務所へ運転して、救援物資を車内へ積み上げて、正午過ぎに出発。
動画がみられます。
http://www.ustream.tv/recorded/13573451
飯田橋から高速道に入り、東北自動車道へ出て、北東東へ進む。
車は重くなっているが、威勢のいい走りであった。
埼玉を過ぎて栃木県に入ると、トラックやガソリンタンク車が結構多い。
救援物資を積み込んだ車も結構多くみられた。皆、北東東へ向けているのだ。
自衛隊の車、救急車、製造メーカーの車、水道・ガス・道路・建設業の車が多くなってくる。
福島に入ると、ひび割れや凹みを埋めたと思われる路面の修理が結構多くみられ、車が時々ジャンプすることがあった。右窓を見ると、東北新幹線の柱が倒れているのが見えた。
左窓を見ると、青シートで屋根を覆った民家があっちこっちに。
車の走りが重くなったようだ。
夜中6時頃に仙台に入る。
宮城県ろうあ協会事務所のある宮城県障害者センターに着いたのは、日が暮れた後の6時半頃であった。
事務所で作業をしていた小泉理事長、平間副理事長、宮澤氏を見つけて、「救援物資を届けに来ましたよ」と伝えた。
翌日の27日は作業の協力。その傍らに、私は、仙台市のろう者と談話しながら、今必要としているものを調べる。
調査作業が一段落して、28日の東京行きのバスを確保。
確保できると、小泉理事長へ翌日28日に帰京することを話した。
その後に、津波被災の仙台港南部(北荒田という町)へ連れていただいた。
海から3~4kmに、コンテナや車、家の瓦礫が…。そこが、津波が止まったところだ。
しばらく走ると、瓦礫が積み上げられ、頑丈な車やトラックが押し潰されていた。鉄筋ビルの1階と2階が突き破られていた。海近くの民家がさらわれて何もかもなくなっていた。
戦争を見ているかと思った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ワゴンの引き渡しをした後、翌朝、(東北新幹線不通のための)緊急車両としての東京方面の高速バスが、仙台駅前に沢山並んでいた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
津波被災地の皆さん、かんばって下さい。
全国各地のろう者仲間が応援しています。
そして、津波被災地のろう者や関係者らを助ける皆さん、復興協力をよろしくお願いします。
心を一つになりましょう。
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