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2006年8月30日 (水)

城東地区聴覚障害者団体懇談会

20060827_004 20060827_007去る8月27日、8月の最後の日曜日に、城東地区聴覚障害者団体懇談会第100回開催を祝う会へ行って来た。
20年以上前から始まり、今は年4回で研修会を開いているそうだ。
知らない方々の為に、簡単な説明を…。
まず城東地区とは、東京都23区のうちの東部の7区をまとめて、「城東地区」と呼んでいる。
他は、城南地区、城北地区、それから、市部は三多摩地区としている。

そして、記念講演は、元全日ろう連盟理事の高田英一氏。
一活動家の思い出というタイトルで、話された。
協会活動に関わって39年間至ったそうだ。
ろう運動と社会情勢の変化の話に、大変興味が深かった。

代表と実行委員長、お疲れ様でした。

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2006年8月24日 (木)

10/9:世界会議の想い出を語る集い

1991年の夏の日に東京で、世界ろう連盟主催『世界ろう者会議』が開かれた。
アジアで初の会合であって、且つ、国内初の大規模行事であって、国内の多くのろう者に注目されていた。
参加チケットが売り切れとなったことも覚えている。
当時、私は、八王子から芝浦へ社内とらばーゆ(古いかな)した年であり、ちょうど参加しやすかった(笑)。
海外から1000名、国内から6000名、合計7000名を越して、世界ろう連盟の歴史上、最大な規模であり、伝説の一つとなっている。
取り計らいも、世界ろう者会議史上最高であったという評判良さも伝説の一つになってるらしい。

あの夏の日から15年経った今、次の行事を開こうとしている。

 -----( 案 内 )-----
第11回世界ろう者会議から15年  世界会議の想い出を語る集い
と き 平成18年10月9日
ところ 東京厚生年金会館
内 容 第一部 トークショー 10時~11時45分
     第二部 レセプション 13時~15時
会 費 第一部のみ:2千円  第二部のみ:7千円  両方出席:8千円
問合せ 及川 FAX:03-5845-8570   渡部 TEL:03-3876-0218

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2006年8月22日 (火)

2006年夏の、パリの街角

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2006年夏のパリの街角を載せよう。
左画像:
コンゴルド広場。
キャンピングドライブでパリへきていると思われる車で一杯だ。

中画像:
パリ北駅前。
いつも大勢の旅行者でにぎわしている。
アールヌーボー調で象られた地下鉄駅への入り口。時が変っても美しい。

右画像:
パリ北駅前の夕暮れ。
夕暮れを見ると、今日のすることは全部こなして来たと、胸をなでおろせるのだ。

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2006年8月18日 (金)

モネの蓮池

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オランジェリー美術館は、改築の長い年数を経て終了され、今年6月から再開された。
モネの蓮池とは、15年振りの面会。
改築前は地下フロアにあったが、今度は、1階フロアへ移された。
1階フロアにあった美術は地下フロアへ移された。
1991年3月に、まだ血気盛んな我が見て感動した。
今度、2006年8月に、より老いたり我が見て、やはり感動する。
思い巡りが確かに異なるが、心が動かされることは同じものだ。
時代が変っても、訪れる人々の心を動かしていると思う。

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2006年8月16日 (水)

DHI2006ガラ(パーティ)

8月4日(金)夜に、DHI2006ガラ(パーティ)が、「赤い役所」という歴史的な建物で行われた。
オレンジ色の世界に包まれながら、食事、団欒を交わし、今後の為にと挨拶を交わし、夜をふけて行った。

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2006年8月15日 (火)

ユダヤろう児・生徒の行方

20060804_045左画像は、DHI2006展示会場で展示されていた「ユダヤの行方」。
ベルリン・ユダヤろう学校の児童生徒の行方の一覧だ。
Auschwitzという綴り、つまり、アウシュビッツというドイツ語表記が多く見つかるはず。
つまり、アウシュビッツで死なれたろう児・生徒・者もいるというわけだ。

DHI2006で、収容所へ送られ、無事に生還できたろう者の話を聞くことができた。
彼の話は次のようなもの。

ろう者であることを言わず、黙って働いた。
酷使され、栄養不良の食事の日々。
自分は、長く、鏡を見ることも、きれいな水面を見ることもなかった。
ソ連軍の到着で解放された。
栄養補給と治療を受けるために入った時、久し振りに鏡を見掛けた。
そこに映ったものは、骸骨のような、あばら骨丸出し、膨らんだ腹、細い手足、奇妙な姿だった。
最初、それが自分の姿とは思わなかったという。
後に誰もいなく、初めて、それが自分の姿だとショックを受けた。

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フンボルト大学の前で何か起きたのか?

DHI2006発表会場のフンボルト大学Humboldt-Universitatは、マルクス、ヘーゲル、アインシュタインらを世界的に著名な学者を輩出した大学として知られている。
正門が開放しているので、見物の人が結構来ているそうだ。更に、裏門から中庭に入ることもできるのだ。

20060730_009ウインター・デン・リンデンという大通り挟んで、大学正門の向かい側に、広場がある。
奥に聖ヘドヴィヒ大聖堂、左隣がベルリン国立歌劇場。

20060730_010 20060730_016その広場で、期間限定の国際展示(上中、上右)が開かれていた。この展示は、世界中に回って、日本では東京で2005年に開かれ、シドニーを回って、ベルリンへ来たそうだ。各々の熊模型にいろいろあしらっているのだ。

しかし、この広場に来て、このユニークな展示を楽しむ人々は、ここで過去に何か起きたか、誰でも想像できなかったと思う。
かくいう私も、7/30に見物した時、展示に目を傾けるばかり、あるものに、全然気付かなかった。
7/31に、ナチとベルリンの歴史を訪れる手話ガイドツアーに参加して、ツアーの最後に、この広場に来た。
何かあるのだろうと、私達が思ったのだ。
広場の中心の、地に四角いガラスを張ったところへ連れられて行くと、ガイドが「下を見ごらん。何か見えますか。」と…。
参加者全員が「本棚」。
私も覗くと、本1冊もない書架が見えた。

< ガイドの説明 >
ナチ時代に、あらゆる出版物がナチの検問対象となり、退廃的なものが全て集めて焼き払われた。
図書館や大学図書館も対象になり、退廃的なものを集められて、ここ(四角いガラスのところ)で焼かれたのだ。
ヘレンケラーの書物も、ここで焼かれたのであろう。
この過ちを繰り返さない為に、記憶に留めるために、ここに碑を置く。

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2006年8月14日 (月)

ベルリン・ユダヤろう学校

昨日の日記に載せた ITA:Israelitischen Taubstummen-Anstalt(ドイツ語表記)を、研究会最終日に、見学に行く機会があった。
何枚かの写真を載せよう。
ITA:Israelitischen Taubstummen-Anstaltを直訳すると、イスラエルろうあ学校(寄宿付)となる。
この直訳ではイスラエルのろう学校かと間違えられるので、ここでは、「ベルリン・ユダヤろう学校」とする。

20060804_053 20060804_072赤いレンガ部分が、元ベルリンユダヤろう学校の校舎。
エレベーターなどが増築されている。



20060804_057この学校は、現在、知的障害児の学校となっている。
赤いレンガ部分の校舎のレイアウトは、当時と同じ。


20060804_054 20060804_055正門の近くに、碑が残されている。
147名の児童生徒がホロコストの犠牲となったことが書かれてある。

20060804_059 20060804_062Israel Savirさんが、当時のろう学校様子を説明。参加者は皆、熱心に聞いた。
当日は、雨が時々降っていた。

20060804_065Israel Savirさんの語った記憶で、左画像の校内に植えられた木々は当時と同じ位置だと説明。
当時の校内は広く、200mほどの幅があったという。現在、幅が70m位。
当時の校舎は、上から見ればU型。残された赤いレンガの部分は、Uの底の部分。
校内で、夏の雨直後に、外の水溜りで、顔を洗ったり体を洗ったりすることがあったという。
冬になれば校内に水を撒いておいて、翌日に凍って、スケートを楽しんだこともあったという。

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2006年8月13日 (日)

ナチ時代のドイツ・ろう者はどうなった?

ナチ時代のドイツ・ろう者は何をされたかを書こうと思う。
ユダヤろう児・者の多くはホロコストの犠牲になり、非ユダヤろう児・者は断種の対象となった。
デフファミリなどの遺伝性障害を断ち切ろうと、ドイツ憲法に「断種」に加えられた。
その後、特にろう学校の児童・生徒が、先生に推奨されるままに、避妊手術を受けたそうだ。
推奨したろう教師には、終戦後、自分の過ちに気づき、恥ずかしくなり、行方不明になった方々もいるとのこと。

20060804_043 左の絵を見ればわかるかもしれない。
ろう学校が通う子供達が、成人男性の説明を受けているところだ。
左から順番に、ユダヤ人蔑視、ナチ党支持、障害者マークの着用義務、手話禁止、避妊手術となっているのだ。

ナチの「断種」は、ろう者の人権が剥奪されたものだ。

ナチ時代のドイツでは、ユダヤろう児・者だけではなく、非ユダヤろう児・者の多くが犠牲になったのだ。
ドイツろう者と断種に関わる本がないが、障害者と断種との関係なら、次の和訳版が出ているので、読むと、一部理解できると思う。
4768466877 ナチスドイツと障害者「安楽死」計画
ヒュー・グレゴリー ギャラファー
長瀬修訳
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4768466877/503-6600839-2605547?v=glance&n=465392

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ベルリンで印象に残った方々

国際ろう史研究会DHI2006の期間を通して印象に残った方々は、ユダヤ人をはじめ、多くいる。
今回に載せるのは、次の方々。
ユダヤ人の写真が少ないとは、理由がある。
発表会場で、写真撮影をしないことの誓約書を、参加者に書いて出してもらったらしい。
私は、通訳として行ったので、そういう書類のサインをされなかったけど、日本から参加2人がしぶしぶとサインを書いたのだ。
ということで、念の為、通訳の私も撮らないことにしたので、ユダヤ人を撮ったものは、発表会場以外で撮ったのだ。

20060731_036 ドイツろう者のJochen Muhs氏。2003年~2006年DHI理事の一人。
7/31に、ブランデンブルグ門、ベルリンの壁、ドイツ連邦議会議事堂近くの殺掠された政治家の記念碑、欧州ホロコスト犠牲者のための記念碑、ポツダム広場の手話ガイドを務めた方。

20060731_033 イスラエル出身、ドイツへ移民した女性の方。(名前は失念 笑)
ユダヤ博物館の職員であり、手話ガイドを務めている。
ユダヤ人の文化・食生活習慣、そして、ホロコスト、博物館設計の意味を語ってくれる。

20060804_061 そして、左の方は、ドイツ出身、イスラエルへ移民したろう者。イスラエル・サビル氏(たぶん)Israel Savir。
ベルリン・ユダヤろう学校ITA*出身。デフファミリ。
両親が先にイスラエルへ逃げた。イスラエル・サビルを引き取る為に、祖父と父がベルリンへ戻ったが、ナチに捕られて死なれてしまったそうだ。
元ITA*のガイドを担った。

* ITA:(ドイツ語)Israelitischen Taubstummen-Anstalt

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2006年8月10日 (木)

<読売新聞>「ドン」が聞こえなかった ヒロシマろう者の記憶

読売新聞オンラインに、広島原爆のろう者の語りを載せている。
本来なら、全文引用は、著作権に触れてしまうが、新聞紙オンラインの掲載記事はいつまで閲覧できるか、私には知らないので、一応、全文コピーした(笑)。

昨年の夏に、長崎平和祈念式典で、被爆者の代表として、山崎さんが堂々と手話で語った。
そのように、被爆、或いは、目撃したろう者の語りを風化してはならない。
戦時のろう者はどう暮らしたか、戦災に巻き込まれたろう者はどうしたか、その語りも無視してはならない。

 -----(引用)-----
読売新聞ズームアップ・ウィークリー
「ドン」が聞こえなかった ヒロシマろう者の記憶
http://www.yomiuri.co.jp/zoomup/zo_06080201.htm?from=os1


 また、あの日が近づいて来る。61年前の8月6日、史上初めてヒロシマに投下さ れた原子爆弾は、瞬時に新兵器の威力と悲惨さを世界に広めた。しかしその時、「ド ン」が聞こえず、終戦後も情報から遮断されて、長い間、原爆とは何かを理解できな かった人たちがいた。被爆ろう者たちだ。正確な実態は把握されていないが、県立広 島ろう学校の卒業生らの調べでは、総数は125人に上る。沈黙の光景ゆえに一層、 鮮明に刻まれた記憶。手話通訳者の仲川文江さんとともに、存命の9人を訪ね歩い た。「いま話さないと、もう機会はない」。そのうち6人が、当初は重かった手を雄 弁に動かしてくれた。
(カメラとペン 尾崎孝)

「放射能」手話になく 吉上巌さん(72)
 爆心から約45キロ離れた疎開先の吉田町(現安芸高田市)で農作業中、せん光と キノコ雲を目撃した。迎えに来た姉に連れられて8月12日に広島市に入り、被爆。 投下時、市内にいた父母や姉ら家族は戦後、次々と死んだ。全身に紫の斑点を浮かび 上がらせて……。そのうち自分もと思ったが、生き永らえた。

 大惨事の元凶が新型爆弾なのは早い時期に知ったが、当時、手話には「放射能」を 説明する言葉がなく、実態を漠然と理解できたのは、かなり後のことだった。

 何がそうさせたのかも知らず、無念のうちに被爆死したろう者を慰霊する「原爆死 没ろう者を偲(しの)ぶ碑」を県立広島ろう学校(広島市中区)の校庭に建立したの は、3年前の8月。毎年8月6日に卒業生らと碑の前に集まり、めい福を祈る。

 同じ場所で、子どもたちに記憶をひもとくことがある。そばには移植された被爆ア オギリ。青々とした葉が、こちらも静けさのうちに、命の尊さを語りかける=先月1 4日撮影(左手前から2人目が吉上さん)。


友人捜し回り被爆 山岡猛志さん(85)

 大竹市でキノコ雲を目撃。地響きも感じた。8月9日に広島市に入り、自転車で行 方不明の友人を捜し回るうちに被爆。長期間にわたり髪が束になって抜けたが、回復 した。かつてはマラソンが得意、今は愛犬と散歩の日々。妻や友人に先立たれ寂しい が、「今でも元気だよ。ほら」と腹筋運動をした=昨年9月18日撮影。

校庭に白骨の山 岡本祐輔さん(76)

 疎開先の吉田町で、教師から新型爆弾が落とされたと聞かされたが、理解できなか った。8月17日、教師に引率されて国民服の配給のため広島市に入り、被爆した。 遠足で絵の展覧会を見に行った産業奨励館(原爆ドーム)の屋根が骨組みだけにな り、学校の校庭にうずたかく犠牲者の白骨が積まれていたのが、まぶたに焼き付いて いる。理容店を営んでいたこともあり顔が広い。自宅には訪問者を知らせるためのラ イトがあった=一昨年2月7日撮影。

体内にまだガラス 村田ヨシエさん(78)

 広島市西区の自宅で、かまどに火を入れて食事の支度中に被爆した。母に助け出さ れた時、見渡す限りの火事が自分のかまどの火の不始末のせいだと思いこみ、驚い た。逃げまどううちに黒い雨が降ってきた。灰や雨が、一番のお気に入りだった白地 に赤いしま模様のブラウスにしみを作って、悲しかった。

 刺さったガラスは体内に残ったまま。髪は4分の1ほど抜け、下痢は冬まで続い た。今でも、夏には体全体に力が入らない事があり、これが原爆症なのかと思う。

 戦後、プロテスタントに入信。日曜礼拝に足を運ぶ。かつて自宅があった路上で、 よみがえった確かな記憶に手をたたいて喜んだ。「思い出せた、思い出せた」=一昨 年11月14日撮影。

勤めに出た兄が骨に 伊藤黎子さん(79)

 自宅の茶の間で、青白いせん光とキノコ雲を目撃した。全壊した家の下敷きになっ た母は重傷。額は裂け、姉の背中で血を吐き続けた。勤めに出ていた兄は、骨となっ て見つかった。近所の人が作ってくれたバラックに避難し、畑の野菜を煮て食べた が、全員激しい下痢に襲われた。10年後、健康を取り戻した母と姉で東京へ引っ越 し、女3人で仲良く暮らしてきた。

 ときどき、頼まれて被爆体験の語り部をする。そのたびに、絵でしか残っていない 兄の面影が胸をよぎる=今年4月12日撮影。


壁に押しつけられた 高夫勝己さん(75)

 広島市東区の宅付近で子犬と遊んでいたら、いきなり10メートルほど吹き飛ばさ れ、壁に押しつけられて気絶した。気付くと、防火水槽に何人もが頭を突っ込んで死 んでいた。つぶれた顔から目玉が飛び出している。

 戦後、被爆者手帳をもらったが、あの地獄絵が特殊な爆弾によるものだとは、19 55年に作られた広島平和記念資料館で悲惨な実態の説明を受けるまで知らなかった。

 そんなことを話しながら、かつての被爆地まで歩いて行った。建物の壁を見ると、 ぐっと顔を押しつけた。あの時と同じように=昨年2月18日撮影。

(2006年8月2日 読売新聞)

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ホロコスト:生死の分かれ道

 DHI2006の発表会場で、ホロコストの生き残りの証人のユダヤ系の方々の話を聞く機会があった。
彼らの話を聞いて、本当に心が痛んだ。
自分の命より、特に、別れて去る友人知人を思う「心の傷」が計り知れぬものだ。

<アムステルダム在住の80代のユダヤ系ろう女性の話>
 暗く狭い貨物車の中で長く長く揺られて、そして、名前知らぬ駅ホームに降り立った。どこの駅なのか、どこの畑なのか、どこの森なのか、教えてくれなかった。
降り立ったホームが生死の分かれ道であるとは、全員、思ってもいなかった。
ろう女性は「ろうあ」という意味の単語のゼッケンを胸一杯につけられていた。
左右に分かれる時、 母からゼッケンを取って捨てろうと急かされ、嫌々しながら剥がして捨てた。
左に並び、家族を一緒だ、バラバラにならなくて済んだ。
右に並んだ人々のうちに、同じゼッケンをつけた人を見つけた。
このゼッケンを剥がして捨ててと身振りを伝えようとしたが、向こうは、ありがとうという投げキスばかりしていた。
顔を前へ振り向くまで、投げキスを続けた。こっちは、力を振り絞って手を振った。
向こうが前向くと、行列の進む方向へ去った。
それが二度と会えることがなかった。

<ベルリン・ユダヤろう学校>
20060802_001 この写真は、第二次大戦当時のベルリン市内のろう学校4校のうちの、唯一のユダヤ学校へ通う子供達。
先生も子供も全員、ホロコストの犠牲となり、命が奪われてしまった。
子供の純な眼差し、そして、女先生の優しい眼差しを見ると、本当に心が痛む。
ベルリンのろう学校児童生徒147名が、ホロコストの犠牲になった。

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ベルリン

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左:6月17日通りの中ほどに聳え立つ戦勝記念塔
中:ドイツ連邦議会議事堂の屋上(展望台)
右:ソニーセンターの中

 ドイツ連邦議会議事堂がリフォームされて、弾跡だらけ、まるでにきび顔から、きれいな顔になった。
屋上に、ガラス張りのドームが設けられ、入場無料で入り、ベルリンの町中の展望が出来る。
入場人数が制限されていて、長い行列が出来てしまう(笑)。
 ソニーセンターは、ポツダム広場の一画をソニーとダイムラーの共同出資で再開発したところ。
新しい設計の建築が、見るのに楽しい。新ギャラリーと絵画館の帰りに、休憩として寄るのもいい。

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左:アレキサンダー広場近くのホテルのベランダから眺めたテレビ塔
中:ブランデンブルグ門
右:欧州ホロコスト犠牲者のための記念碑

 高いところに球があると、やはり、不思議な気分になる。
この球みたいなものをよくよく見るとサッカーボールを象っている。そういえば、6月にワールドカップ2006が開かれたのだ。
 ブランデンブルグ門は、1997年頃に行った時と比べて、修繕されてきれいになっている。
だが、当時、車やバスが潜り抜けることができたが、今は、通行できなくなっている。
この門をくぐって東へ進むと、昔へスリップ、西へ進むと、未来へといった、タイムマシンみたいな感覚を楽しめたが、今は、ブランデンブルグ門の東、つまり、旧東ベルリン市街がかなり変ったため、どっちへ潜り抜けても、時間的な感覚がないのだ。
夜11時頃に撮ったのだ(笑)。ベルリンの日暮れは夜10時頃だ。日が暮れて真っ暗になってから、ライトアップを見に行ったわけ(笑)。
 このブランデンブルグ門の南、ポツダム広場へ行く途中に、100m×100mの広さに、黒い墓みたいなモニュメントが2500個位立ち並んでいる。それが、欧州ホロコスト犠牲者のための記念碑。

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2006年8月 7日 (月)

DHI2006(国際ろう史研究会)

だいぶ間を置いてしまいました。
実は、先週の7月31日~8月4日にベルリン市フンボルト大学で開かれた、DHI2006(国際ろう史研究会)へ参加して、いろいろな発表を見て来た。
今回のテーマが『デフ・ホロコスト(Deaf Holocost)』であって、以前から関心があった。

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DHI2006の受付、及び、実行委員会本部は、SAS RADISSON HOTEL。
博物館島の隣にあり、発表会場のフンボルト大学まで徒歩7分位の近さ。

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発表会場のフンボルト大学の正門。
次は、発表会場の部屋への入り口。正門より裏門の方が近かった(笑)。

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DHI2006は、7月31日夕方の開会挨拶によって始まった。
この開会挨拶は、フンボルト大学の中で行われた。
庭で寛いでいるのは、記念写真を撮る為、待っているところ。

プログラム、発表などの詳細は、明日に書きます。

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