2013年3月 6日 (水)

御無沙汰しました

1年以上、ブログを空けてしまいました!
楽しみにしていた方々、誠に申し訳ありません!

先週の2月27日にフェイスブックを開きました。
これから、フェイスブックに書き込みます。
このブログは、しばらくおいて、様子を見て閉じたいと思っています。

http://www.facebook.com/#!/profile.php?id=100005343040160

上記URLへアクセスできなかったら、本名の「宮本一郎」を検索して下さい。

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2012年1月 2日 (月)

2012年 謹賀新年

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新年おめでとうございます。
昨年中はいろいろとお世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。

2011年は、予期せぬ出来事が沢山ありました。

- 出来事 -
■3月11日東日本大震災
20110327_0373月11日昼2時46分に宮城県太平洋沖に地震が起き、大規模な津波が青森県から千葉県北部まで広く、襲った。
陸に上がる前が最高17m、陸に上がった後の最高38m。
仙台平野では海岸線から4~5㎞まで伸び、気仙沼や石巻などの、三方が山に囲まれた地域では8㎞まで津波が衰え知らぬ襲ったことが、多くの人命と生活の場を奪ってしまった。
また、昔から語り継がれていた、地震発生後の津波到来までの時間より、かなり遅れて到着したことが、多くの人々の油断が不幸へ転じてしまった。
20110605_027日本国民全員が一瞬にして悲しみに覆われた、忘れ難い日でもある。
翌日から、多くの日本国民が早くから救援活動に動き出し、日本総国民の絆を強めて行った。
恐らく、日本総国民が一緒になるのは、第二次大戦の日々以来ではないかと思う。

■内閣府記者会見に手話通訳者が立つ
津波による福島第一原子力発電所の事故に関する安全情報に手話通訳が不可欠だと、日本中から内閣府へ要請の声が相次いで、当時の枝野官房長官の配慮により、内閣府記者会見に初めて手話通訳者が立った。
それは、先輩から継がれて来た長いろう運動の結果であると思っている。
内閣府記者会見に手話通訳者が立つだけでも、日本中の行政や各方面で様々な影響が現れてきている。

■障害者基本法改正
戦後60年以上、手話の法的位置づけがなく、ろう者の権利が無視されているともいえる。
内閣府障がい者制度改革推進会議で、障害者基本法の見直しが出され、久松委員が手話の明記を強く求め続けて、8月の国会で承認され、初めて、政府レベルの法律上、手話の法的位置づけを明示できた。
日本中の各自治体は障害者関係方面でも、手話に対する言動が「視点に入れる」という態度へ大きく変化している。

■八王子市議会で、『障害がある人もない人も安心して暮らせる八王子づくり条例』が承認される
八王子市障害者差別禁止条例である『障害がある人もない人も安心して暮らせる八王子づくり条例』は、2011年5月から9月まで、月2回以上の作業委員会が開かれてまとめたものである。
既に施行されている障害者差別禁止条例をベースにして、障害者虐待防止法や、監視組織の設置などを盛り入れてまとめている。
12月7日に八王子市厚生委員会で承認され、12月15日の八王子市議会で承認された。1月中に黒須市長により公布され、4月から施行となる予定。

■個人の話だが、1月に26年9ヶ月務めた沖電気を(早期)退職し、3月に大学院を無事に修了したことである。
2010年10月末に父が亡くなられたことも合わせて、私自身の人生が、幾つかの節目を過ぎたと思う。

■南アフリカ・ダーバンでの第16回世界ろう者会議で、分科会座長という大役を務めたこともいい経験となった。
20110719_067 Dsc_0255_2過去の会議では1人だけである。また、国際会議で、もっと、日本ろう者を沢山出して、日本のろう運動の強みをアピールし、国際リーダーでもあることを明示することが重要である。

- 今後の抱負・課題 -
■国連ESCAP「アジア太平洋障害者10年計画(第三次)」へ向けた取り組み
20111217_012国連アジア太平洋経済社会委員会が取り組んでいる「アジア太平洋障害者10年計画(第二次)」は、2003~2012年であり、今年が最終年にあたる。
2007年に国連障害者権利条約(CRPD)が施行され、障害者本位となった社会参加と人権への取り組みなど、世界中の各方面で大きな動きが出ている。
障害者禁止条例を発布したり、国会議員に障害者を選出したり、各方面で大きな飛躍が見られる一方、障害者自身にも自立と責任を求められる側面も強まった。
以上の背景事情を考慮して、今、国連ESCAPにおいて、2013~2022年の第三次の10年計画の目標課題について、アジア太平洋地域の各国政府に反映させるような内容となるように検討しなければならない。
Dsc_0049アジア太平洋地域は、GNP格差と貧富差の大きさ、複雑な宗教による哲学的な側面の多様性、目標課題の設定に非常な困難がある。しかし、アジア太平洋地域の障害者全員が人権を保障され、満足できる人間らしい生活を送るために、設定しなければならない。
効果期待ができる「アジア太平洋障害者10年計画(第三次)」となるようにかんばって取り組んでいきたい。

■災害対策の確実な取り組み
東日本大震災発生後、障害者の多くは、多くの市民が救われる中で放られてしまったという事実問題が明るみとなった。
また、災害救援法には個人情報の閲覧が可能となるのに、実際では活かされず、震災要援助者から外されてしまった。安否確認も、高齢者よりかなり遅く、行政が対応不可能で、多くは障害者団体や関係団体の調査で安否確認ができたという始末であった。
災害対策には、行政への要請だけでなく、地域活動も重要である。
この地域活動に何か必要か、至急検討と対応を実行しなければならない。

■国際支援人材の育成確保
20110612_029 20110719_046アジア太平洋各国各地域の聴覚障害者団体や関係団体のうちに、技術指導、活動指導などの自助活動を求めるニーズがこれから高まっていく。
この要請に応じて、すぐ派遣できる人材の育成、確保が重要である。

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2011年11月 8日 (火)

タイのCM

感動させられる、タイの生命保険会社のCMを紹介!
3分10秒の短さですが、ろうの父と娘の切ない繋がりを語ったものです。

Silence of Love
http://www.youtube.com/watch?v=Wvf1A2nfWgQ
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ろう父親役を演じた男性は、JICA「アジア太平洋地域ろう者リーダー研修」の、確かに、1998年頃の研修生。
10年以上前だが、容姿があまり変わらない!

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2011年10月10日 (月)

コスモス

自宅近くの畑に、コスモスが沢山咲いていました。

「コスモポリタンCosmopolitan(世界主義、国際的)」に近い綴りですので、その名前がお気に入りです。

海外へ出かけることが多い者が日本景色を見ると、日本人の一人として和まれるという話は、よく聞かれる。
桜景色、田んぼ景色、紅色が染まる紅葉景色(欧州は黄色が多い)、静かに迎える大晦日の夜景色、神輿やお盆の祭り景色、そのような季節のものもあれば、富士山や寺・神社などの景色もある。コスモス景色も、その一つとして挙げられている。

今年3月11日の東日本大震災発生後、海外行きの多い、大勢の人々が日本人意識が高まったと、私は感じている。
世界中の人々のうちには、日本人が自然災害の多い土地で暮らし、度々災害を被られて、お気の毒だと思う人達も結構いたりする。

世界ろう者会議や、国際ろうスポーツ委員会でも、「日本人の多くは、神のみ知る運命に左右されて、お気の毒です。」と言われて、「何を言っているのですか?」と、食いかかったことがあった。
その言葉は、社交辞令なのか、私は知らない(苦笑)が、私が話したのは、次の通りだ。

「この津波は、予期なく襲われたものではない。祖先の語り継がれていることを聞いていて、津波の襲来再来を意識していたことが事実だ。神のみ知る運命に左右されたようなことではない。その地域の人々に対して失礼なことを言っているのではないか?」

8月のある日の某新聞で、日本文化と自然災害の繋がりに記されていた。
この記事の要点は次のようなものであった。

台風や大雨、地震、津波などの自然災害が多い日本は、昔から、自然災害を自然の一つとみなし、受容しているということであった。

そこだと、私は思った。
東北地方の太平洋岸の各町村は、昔から、津波対策を行っている。
人間の力で津波を制することが不可能であって、津波が去れば、一日早く、生活と村を戻すことが大切だと、多くの人々が先祖から語り継がれ、子孫へ語り継ごうとしている。

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2011年7月25日 (月)

世界ろう者会議が閉幕

昨日7月24日昼2時から、第16回世界ろう者会議の閉会式が行われた。
マックゥ・ヨキネン理事長と、コリー・アレン次期理事長との同席で、閉会式が進められた。
20110724_088_2 20110724_092 20110724_106アパルトヘイト時代の、歌とダンスがいろいろ披露されて、初めて見るダンスもあった。
歌とダンスの一色であったが、楽しいものであった。

20110724_116南アフリカから、2015年開催予定のトルコへの引き継ぎも行われた。トルコろう協会会長が、過去2回の敗北、そして、今回の獲得、2015年の再会を祈るという歓迎の言葉を述べられた。

20110724_117 20110724_118_2 20110724_119そして、スクリーンにシィフォSiphoが登場。
トルコでの再会を祈り、多数参加の感謝を、国際手話で述べた。
顔の表情が精密で、文法に則っているところが凄いと思った。

20110724_121最後に、ヨキネン理事長、アレン次期理事長、ウィルマ会長の挨拶で閉会された。

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2011年7月16日 (土)

いよいよ世界ろう者会議が始まる

いよいよ、第16回世界ろう者会議が始まります。
今日7月16日から明日までの2日間に評議員会、明後日7月18日に開会式が行われれます。

Title場所は、日本から遥か遠い南アフリカのダーバン。
会議会場は、国際コンベーションセンター(ICC)。
シティホール(市庁舎)から北へ徒歩で5分位のところにあります。
(画像は、近畿日本ツーリストから借用)

20110715_051 20110715_053このダーバンは、かってアパルトヘイト対策が敷かれていた時代の、白人専用保養地だったそうです。
南にアフリカ最大のナタール港を抱え、東から北へリゾートの海岸が続きます。
中心街の道路で闊歩する人々は、白人:カラードの割合で、2:8という感じです。

20110715_080 20110715_076左:ICCの入り口(ヒルトンホテル側)
右:ICCの入り口(市庁舎側)にあったモニュメント
ヨキネン理事長(フィンランド)は任期満期をもって辞任されることになっており、次理事長が注目されています。
立候補者は、コリン理事(オーストラリア)、マレー理事(米国)、テリー・ライリー英国ろう協会理事長の3名。

20110715_033 20110715_069 20110715_060町には、英国流の民家や建物が多いです。
左:市庁舎 中:歴史博物館 右:町の一景色

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2011年6月20日 (月)

韓国→佐賀→香港

20110612_011_26月11日~12日に佐賀市において開かれた『第59回全国ろうあ者大会』が盛大のうちに終了できたこと、実行委員会とその関係者、そして、全日ろう連関係者の皆さん、お疲れ様でした。
東日本大震災の影響により、参加者の目標人数を割ってしまわないかと心配されていたが、九州各地をはじめ、より多く参加され、上回り、盛り上げられたようだ。

この全国大会の前後を含む日程は、私にとって多忙な日々であった。

全国大会の前に、6月3日に『韓国聾唖人協会 全国大会』、6月4日に『韓国聾唖人協会青年部発足祝賀会』が行われ、そして、全国大会の後に、6月14日~17日に香港中文大学で『Building A Better Asia: Deaf Dialogue PartIII』が行われた。

まず、韓国。
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1枚目は、全国大会の式典。私は上手側に座っている。毎年6月3日と決まっているらしい。
2枚目は、国歌
3枚目は、ビョン理事長の挨拶。重量感のある挨拶であった。
4枚目は、石野理事長の挨拶

翌日の6月4日に、青年部発足祝賀会が行われた。
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嶋本理事(右側)が、AP青年部執行役員として舞台に。

日曜日に帰国して、全国大会行きと香港行きの準備にとりかかる。
木曜日に、大きなトランクを持って、佐賀へ移動。

Ddlogocolorhp_2全国大会が終わると、福岡から香港へ直行。
『Building A Better Asia: Deaf Dialogue(アジアのより良い構築のために:デフ・ダイアログ)』の第三回(最終回)のためだ。
1回目と2回目は11ヶ国19名だが、3回目は8ヶ国8名と絞った。
この8名の若者に、アジア全体の課題と提案について議論して、まとめてくれた。

3回目のスピーチ。
http://deaf-dialogue.net/?page_id=2028
http://www.youtube.com/watch?v=7Ku5n57A5uY&feature=player_embedded

参加者と手話通訳者ら
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1枚目が香港中文大学、2枚目と3枚目は教室窓からの景色。
20110612_030 20110612_035 20110612_036

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左は私、中は宋良昇(SUNG Leung-Sing)会長、右はヘッドベルグWFD理事。
宋良昇会長は、まだ20代前半の若さだ!


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2011年4月15日 (金)

地震経過がわかる地図

3月11日0時から始まって、今日に至るまで、東北大震災を含む地震発生の経過を見ることができるものが出た。
ニュージーランドのカンタベリー大学のPaul Nicholls氏が作成したもの。

日本の地震の地図
http://www.japanquakemap.com/?lang=jp
01
 
地図の右上角のところの「Sticky Dots」にチェックを入れると、震源地の点が残る。
東北~千葉県の太平洋沖の、日本海溝で頻繁に起きているのがわかる。

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2011年4月12日 (火)

H3に掲載

全日本ろうあ連盟正式サイトに、「東日本大震災に関する聴覚障害者関連の情報」というページがある。
http://www.jfd.or.jp/tohoku-eq2011
このページには、救援をはじめ、地震津波情報や義援金などの情報を載せている。
海外向けの英語ページがあり、私が国際手話で地震状態や救援などを説明した動画を載せてある。
http://www.jfd.or.jp/en/quake2011

014/6に載せた動画の1つが、H3のサイトに載った。
http://www.h3.tv/
http://www.h3.tv/videos/ichiro-miyamoto/

今後も、英語版に、国際手話による正確な情報を載せて行くつもりです。

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コロンボでの想い

4月2日~3日に神戸で全日本ろうあ連盟臨時理事会が行われた後、急いで帰京。
翌日の4月4日午前に、成田からシンガポール経由スリランカへ発った。

臨時理事会は、もともと、3月12日~13日に東京で行うものだが、3月11日に宮城県太平洋沖でM9の地震が起き、翌日12日に福島第一原発の事故が発表されたことにより、石野理事長の判断で「理事会中止・延期、急遽各々帰宅するように」と指示が出され、延期されたものである。
東日本大震災により、私自身の各組織の出席が余儀なく変更された。首長不在の開会が幾つかあり、たぶん、各々の組織史上初の首長不在の開会となったかもしれない。

各々の組織に出席された方々の協力のお陰様で無事に事が進み、閉会されたこと、誠に感謝申し上げたい。

神戸で臨時理事会が開かれた場所は、1995年の阪神大震災で被害が一番大きかった長田であった。
スリランカも、2004年のスマトラ島沖地震による津波で大きな被害を受けた。
阪神大震災、スマトラ島沖地震、東日本大震災、各々の繋がりがあるところへ行ったのは、運命だろうか。

今回のスリランカ行きは、ダスキンの2011年夏~2012年夏の研修生候補者との面接である。
一昨年、香港中文大学との共同作業でスリランカへ訪れた以来であるが、一昨年はテロ対策のため、検問と通行制限が多かった。
今回は、多くが解除されて、自由となっている。

20110406_006 20110406_010スリランカは、1988年頃、モルジブへ行く途中に乗り継ぎのため降りて、Taj Hotelに1泊した。当時は大晦日の夜であり、広い海浜公園で大勢の人々が集まっていたので、物珍しさで友達と一緒にブラブラしたと記憶している。
1988年から20年以上経った今、Taj Hotelの真正面の広い海浜公園で自由往来している人々を見て、変化が幾つかあると気付いた。

①女性のへそを見せているサリー姿が比較的に高齢化が進み、若い女性はワンピースやズボン姿が増えている。
②男性の腰巻が完全に消えている。自宅では腰巻の習慣が残っているかもしれないが、海浜公園でぶらつく男性は皆、ズボンか短パンの姿になっている。
③男性同士で手を繋いだり肩を回すことは親友の証しであったが、今は見かけなくなった。西洋化が進んだかもしれない。
④天然パーマなのか、グルグル毛が多かったが、女性の髪がストレートが多い。男性は短めの髪が多い。
 それも西洋化の一つかもしれない。

日本でも、昔、着物姿が結構みられたが、西洋化が進んで、今は、町の中では高齢者ぐらいとなった。
国内外の情報流出入が進み、貨幣を中心とする庶民生活へ変化した結果であると思う。

20110407_036 20110407_048それから、コロンボ滞在の最終日に、滞在先のCinnamon Grand Colomboというホテルから東へ徒歩30分ほどに、ガンガラーマ寺院へ行ってみた。
仏教の寺院であり、境内に象がいた。

20110407_032 20110407_034土足を脱いで預けて、境内を歩くと、右のものを見かけた。
東日本大震災のお悔やみ・お見舞いを記した横断幕が、境内の数か所に飾られていた。
シンハラ語と日本語が書かれている。
その綴りを見て、日本から遠い国から応援しているのだと、胸には感謝の気持ちで一杯になった。

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